cuckoo's nest

毎回テーマを変えながら、自分が好きなものを紹介します。

宇多田ヒカルが捧げる「花束」

前略

このブログは、あくまで個人的なアウトプットのためのブログであり、

それ以上でもそれ以下でもない。

日々の中で書きたくなったことを書いていく。そのため毎回テーマは違うので、あしからず。

 

ということで第1回の今日は2016年9月28日にリリースされた宇多田ヒカルの6枚目のアルバム、

『  Fantôme

について。

宇多田ヒカル論についてはまた別の機会に書くとして(かなり長くなるし、アルバムを全て聴き込む必要がある)この素晴らしいアルバムを日本語ポップの一つの到達点として、何がそんなに素晴らしいのか、について書いてみたいと思う。

それにはまずこのアルバムが、2013年に亡くなった彼女の母親に捧げられたものであるという大前提を把握しておかなければならない。特に「道」「花束を君に」「真夏の通り雨」の3曲は歌詞の内容も直接的に母親に向けられているように思える。

 

私の心の中にあなたがいる

いつ如何なる時も

どこへ続くかまだ分からない道でも

きっとそこにあなたがいる      

                  ー「道」

 

花束を君に贈ろう

愛しい人 愛しい人

どんな言葉並べても

君を讃えるには足りないから

今日は贈ろう 涙色の花束を君に

               ー「花束を君に

 

 

もう二度と会えないなんて信じられない

まだ何も伝えてない

まだ何も伝えてない

 

                 ー「桜流し

 

 このように特定した「誰かに向けての歌」というのは、今までの宇多田ヒカルにはなかった部分だろう。

それだからこそよりパーソナルな感情、物語性がアルバムを通して感じられるし、何より彼女の声が今までよりも優しく、暖かく、そして悲しみを帯びていて、より肉感的に我々に訴えかけてくる。

 

それはサウンドのアプローチにも共通していて、今までよりも生っぽい感触なのは、インタビューによれば意図的にトラックをシンプルなものにし、歌声と歌詞を全面に押し出すプロダクションにした、というところからくるものだろう。それは彼女が、

日本語のポップスで勝負しようと決めていた」と語っていることからも分かる。

 

また、歌詞の部分で注目したいのが「真夏の通り雨」の

「揺れる若葉に手を伸ばし あなたに思い馳せる時」

「夢の途中で目を覚まし 瞼閉じても戻れない」など7・5・7・5の短歌のリズムで作られていること。

だから声に読んでも美しいのである。

 

さらに他曲では、「調子に乗ってた時期もあると思います」などの心境の吐露や、普通なら夜と言ってしまいそうなところを「朝昼もがんばる」と韻を踏んでみたり、「苦汁甘来」、「虚心坦懐」など四字熟語を使ったりと、やっぱり宇多田ヒカルだなと思わせるような言語感覚は今作でも見受けられる。

 

歌唱力とトラックメイキングが凄すぎてあまり歌詞にフォーカスが当たらない宇多田だが、僕は文学的な引用からなる日本語本来の美しい言葉と、「お笑い番組」「ドラマの再放送」などの日常のありふれた言葉から紡ぎ出される彼女の歌詞は、大いに現代の詩人としての価値があるので、もっと評価されるべきだと思う。

 

 また歌唱の部分では、「花束を君に」の二回目のAメロは跳ねて歌ったり、三回目のAメロの「眩い風景の〜」の唐突のフェイク、そしてラストの大サビのエモーショナルさなど、彼女の歌がもう一段階次のステージに上がったことが確認できる。

 

 母親の死、そして子供の誕生。このアルバムは、生と死を突きつけられ、人間として嫌でも成長しなければならなかった宇多田ヒカルの、今までで一番血肉の通った人間的なアルバムである。

それはまるで私小説を読んでいるかのような気分に陥る類いのものなのだ。

 

 そして彼女はこのアルバムをこう締め括っている。

 

 

 

どんなに怖くたって目を逸らさないよ

全ての終わりに愛があるなら

                     

 

 

                                                             ー「桜流し

 

 

このアルバム自体が、宇多田ヒカルから

母親に捧げる「花束」なんだろう。

 

 

Fantôme

Fantôme